かくて行動経済学は生まれり

マイケル・ルイスの新著(といっても訳書だが)で、ファースト&スローのD.カーネマンについてのノンフィクションを読んだ。

かくて行動経済学は生まれり

かくて行動経済学は生まれり

われわれの認知にはもともとバイアスがあって、そのバイアス(ヒューリスティック)は系統的である、という話だが、その背景にあるカーネマンとトヴァルスキーのドラマに焦点をあてて書かれている。
性格の全く異なる天才ふたりがお互いに引き寄せられ、本当に楽しそうに協働することによって理論を練り上げていくところがとても面白い。

かいつまんで書くと、われわれの脳は、多くの事柄に対しては、あまり考えずに直感的に答えるようになっており(システム1)、じっくり考えて答えを出さないといけない場合には別の仕組みで考えるようになっている(システム2)。

この直感的に答えるシステム1で済ませる部分にバイアス(ヒューリスティック)が存在するのだ。

このバイアスのために、われわれは”数学的には明らかな”誤りを犯してしまうのだが、その一方で、身の回りで起こる森羅万象に対して、限られたエネルギーを使わなくて済んでいる。
これは現生人類のはじめ頃、サバンナで素早く動く陰が見えたら四の五の考えずに逃げる方が、よく考えて観察し、「肉食獣だ、逃げろ!」と筋道立てて考えるよりも生き残る可能性が高く、われわれはそういう形質を持っていたサルの子孫だから、ということらしい。

医療の現場も判断の連続なわけであり、ヒューリスティックにあふれている。

文中(第8章)にも述べられているのは、ある病気をもつ患者さんの集団に対する治療法と、目の前にいる患者さんの治療が違ったりすることがあり、両方がベストの治療ということはありえないではないか、とある。
(どちらかがベストなのなら、もう一方は良くてもセカンド・ベストになる)

例えば、ただの風邪に抗生物質を処方するのは教科書的には誤りだ。
しかし、目の前に患者さんが来て、「帰って身体を温めてゆっくり寝て下さい」では納得してくれない方も多く、「あそこの医者は何もしてくれない」という悪評になる可能性まである。
脳外科の勤務医ならそんなことは構わないとも思うが、地域の評判が死活問題になるクリニックでは、抗生剤を処方するのも責められない。
(長期的には受診者の知識(意識)を高めるしかないように思われます。)

(ただし、これは、病気自体ではなく患者さんの満足度(etc)を含めるとベストの選択肢が変わってくるということであって、ほかのヒューリスティックとは違うようにも思われる)

また「5%の可能性でもとの生活にもどれない治療」というのと「95%の可能性で成功する」というのでは、後者の方が安全だと思うというのは、経験的にも納得できる話だ。
比較的リスクの少ない手術などは、患者さんに余計な心配をさせないように後者のような言い方をするように思う。

自分(に限らないが)思考の"くせ"を知っておくには、読みやすく分かりやすい作品だと思った。